【三島由紀夫 50年】
三島由紀夫事件(1970年11月25日、楯の会隊員4人とともに自衛隊市ケ谷駐屯地=現防衛省本省=を訪れ、東部方面総監を監禁。バルコニーで憲法改正のための決起を促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた)の第1報を聞いて、日本政府や防衛庁(当時)は、「狂ったのか」(中曽根康弘防衛庁長官)と迷惑顔だった。
以後、学生団体の体験入隊を受け付けなくなった。防衛大学校は保守思想を持つ入学希望者を好まなくなったと聞いている。
朝日新聞は三島を介錯後に自刃した、「楯の会」学生長、森田必勝の生首を一緒に並べ掲載したためひんしゅくを買った。多くのメディアは周章ろうばいのあと、議会制民主主義を脅かす狂信者というキャンペーンを展開した。
ところが、巷の意見はまるで違った。
あれほどの世界的に著名な文豪が命をかけた行動を、軽々しく論評した作家の司馬遼太郎、松本清張らへの反発も強かった。
「見事に散った桜花」(作家・文芸評論家、林房雄)
「精神的クーデター」(作曲家、黛敏郎)
「事件の夜の雨は日本の神々の涙」(文芸評論家、保田輿重郎)
「分からない、わからない、私には永遠に分からない」(評論家・翻訳家・劇作家、福田恒存)
などと、いまも記憶が鮮明な名文句の数々。
新聞とは異なり、雑誌は特集、別冊、増刊を出した。ほとんどが売り切れ、週刊誌は三島の特集を組めば売れると言っていた。
私(宮崎)は三島を介錯し、自らも切腹した「楯の会」学生長の森田必勝と親しかった(=早大国防部で3年間、同じ釜の飯を食べた)ので、実家の三重県四日市市に泊まり込んで、彼の日記を整理し、遺稿集『わが思想と行動』(日新報道)を編んだ。
これを資料として、中村彰彦『烈士と呼ばれる男-森田必勝の物語』(文春文庫)も書かれた。後者は、あの事件は森田が主導したのではないかという地下水脈をたどった労作である。
事件直後に「三島由紀夫追悼の夕べ」が、東京・池袋の豊島公会堂で開催され、林房雄、黛敏郎らを発起人に、作詞家・作家の川内康範と、作家・評論家の藤島泰輔の司会で、多くが追悼の辞をのべた。会場に入りきれない人が1万余。交通渋滞が引き起こされた。
1年後、東京・九段南の九段会館で「憂国忌」と銘打たれた追悼会には、近くの武道館まで2万人の列ができた。憂国忌は『歳時記』の季語としても定着し、半世紀を経た現在も命日に開催される。
三島事件の衝撃は、師である作家、川端康成を政治に走らせ(=東京都知事選で、元警視総監の秦野章を応援)、好敵手だった作家で国会議員の石原慎太郎は改憲を掲げた「青嵐会」に馳せ参じ、論敵の評論家、吉本隆明は感動して転向した。
直後に「老衰に過ぎない」と三島を罵倒していた文学評論家、江藤淳が二十数年後に、三島と西郷隆盛を重ねた『南洲残影』(文藝春秋)を書いて絶賛した。それほどに時代は変化していた。(敬称略)
■宮崎正弘(みやざき・まさひろ) 評論家、ジャーナリスト。1946年、金沢市生まれ。早大中退。「日本学生新聞」編集長、貿易会社社長を経て、論壇へ。国際政治、経済の舞台裏を独自の情報で解析する評論やルポルタージュに定評があり、同時に中国ウォッチャーの第一人者として健筆を振るう。著書に『新型肺炎、経済崩壊、軍事クーデターでさよなら習近平』(ビジネス社)、『戦後支配の正体 1945-2020』(同)など多数。
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April 23, 2020 at 06:00PM
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