目の前の光景が信じられなかった。
「日本で最も豊かな隠れ里」といわれる熊本県南部の人吉球磨地方を走るローカル線にとって、国の登録有形文化財に指定された第四橋梁はシンボルであり、誇りでもあった。長さ322メートルの橋梁が流されただけではない。5車両全て水没し、「万事休すか」という思いが頭をかすめた。しかし、立ち止まっているわけにはいかない。乗客の8割を占める通学の足の確保、被害状況の把握、安全確認……。
最悪の状況の中で、鉄印帳の一斉販売は7月10日に迫っていた。第三セクター鉄道等協議会(以下三セク協)からは「無理はしないでください」といわれていたが、鉄印帳を提案し、加盟40社の共同事業にと呼びかけたのは、ほかならぬ自分である。土壇場になって抜けるわけにはいかない。迷いを振り切って、「仲間と一緒に始めさせてください」と返答した。「三セク鉄道はどこも苦しい。それでも頑張っている姿を見てもらいたい。こういう時だからこそ、前に進まなくては、という気持ちもありました」と永江は言う。
鉄印帳誕生の物語は2年前に遡る。ある日、妻が御朱印帳を買ってきた。「
当時の三セク協会長の
「私たちの夢を形にしてほしい」。旅行読売出版社メディアプロモーション部長の伊藤健一は出田から話を聞いた時、ある光景を思い浮かべていた。東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手県の三陸鉄道の運行再開を、地元の人たちは涙を流して見守っていた。沿線住民が鉄道に寄せる思いを知り、「この企画は何が何でも実現させたい」と奮い立った。
伊藤は「旅は人生を豊かにする」と信じ、26年間旅行雑誌の制作にかかわってきた。最近は「お金がないから、旅行に行かない」という若者が増え、「旅への憧れ」という価値観が失われつつあると感じている。ローカル鉄道の旅はふれあいの旅になる。鉄印帳の可能性に賭けてみようと心に決めた。
しかし、40社は規模も違えば、文化も違う。総論賛成でも、各論に踏み込むと様々な意見が飛び交い、なかなかまとまらない。伊藤はイメージを固めてもらうために真っ先に鉄印帳の見本を制作した。それをベースに意見を聞き、少しずつ修正する。担当者とは直接電話で話すように心がけた。丁寧に合意を取り付け、6月13日に全国一斉に発売することが決まった。初回は5000部を用意し、各社への割り当ては110部。「そんなに売れない」という声も上がったが、「残ったら私のところで買い取ります」と伊藤は言い切った。
最後のハードルは、やはりコロナ禍だった。発売日は最初の緊急事態宣言と重なり延期。解除後の6月23日、都内で記者会見が開かれた。三セク協の当時の副会長(現会長)、三陸鉄道社長の中村一郎は7月10日に発売することを説明し、「鉄道に乗ってもらうきっかけになってくれれば。沿線の魅力を楽しんでほしい」と語った。
被災対策に追われる中で、発売日を迎えた永江は不安を抑えられなかった。くま川鉄道は現地で購入できないため、特別にインターネット販売を認められたものの、申し込みはあるのだろうか。だめなら、イベントで少しずつでも売っていこう。そんなことを社員と話していたが、
くま川鉄道は国の支援で復旧が決まり、11月には一部区間で運行が再開されることになっている。しかし、ローカル鉄道の未来は厳しい。永江は言う。
「仲間の結束も強まった。この絆は私たちの宝になります」〈敬省略〉
文・三沢明彦
※「鉄印帳」とは、第三セクター鉄道等協議会に加盟する全国のローカル鉄道40社が連携して始めた、いわば御朱印帳の鉄道版。鉄印帳(2200円)を購入して、各社指定の窓口で乗車券を提示、記帳料(300円から)を払うと各社のオリジナル「鉄印」がもらえる。
詳しくは、WEBサイト「 たびよみ 」で。
(月刊「旅行読売」2021年8月号から)
◆月刊「旅行読売」
1966年創刊。「読んで楽しく、行って役立つ旅の情報誌」がモットー。最新号や臨時増刊などの案内は こちら 。
からの記事と詳細 ( さまざまな思いが重なって……「鉄印帳」誕生物語 - 読売新聞 )
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